老いの道草 25 「たたき上げ」御三家

「たたき上げ」と言えば、第一に田中角栄氏、第二に村山富市氏、第3に菅義偉氏を上げたい。

 第99代内閣総理大臣菅義偉」総理のイメージつくりに「たたき上げ」というレッテルを貼った。

 ある意味では確かにたたき上げであるが、大分県が輩出した村山首相とは全く異なった経歴を歩んできた。

 御三家の幼少時代と学歴、そして職歴を覗いてみよう。

 田中角栄氏の幼少時代は極貧の生活と言うけれどそれは事業に失敗しての結果であって生まれながらの極貧生活ではない。

 学歴は高等小学校卒。上京、田中は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤め、後に井上工業に住み込みで働く、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職にも就いた。

 1936年(昭和11年)3月、建築事務所に勤め、春に独立して「共栄建築事務所」を設立。

 1938年(昭和13年)、徴兵検査で甲種合格、現役兵たる騎兵として陸軍の騎兵第24連隊への入営。

 入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。

 事務所を改組して田中土建工業を設立。理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。

 村山富市氏は1924年大分県大分市の漁師の家に11人兄弟の6男として生まれた。1936年、大分市立中島尋常小学校卒業、1938年、大分市立大分高等小学校卒業後、東京に出て、昼間は機械工場や印刷工場などで働きながら、夜間は東京市立商業学校に学んだ。

 1946年、旧制明治大学専門部政治経済科を卒業。1948年、大分県漁村青年同盟の書記長に就任。漁業協同組合設立等の成果を収め漁村青年同盟が解散すると、その後は大分県職員労働組合の書記として活動した。

 大分の市議会議員2期、県議会銀3期。1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、トップで初当選。日本社会党委員長(第13代)、内閣総理大臣(第81代)、社会民主党党首(初代)等を歴任。

 菅義偉氏は父から農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後上京。板橋区の段ボール工場で過ごすも2ヶ月で工場を退職。その後は大学進学を志すようになり、朝は築地市場、夜は新宿の飲食店でアルバイトをして生活。法政大学法学部政治学科卒業。

 衆議院議員小此木彦三郎の秘書となり、以後11年にわたり秘書を務めた。横浜市議会議員を2期務め、1996年の第41回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自民党公認で出馬し初当選。

 

 Wikipediaで御三家の幼少期の家庭状況、学歴、職歴を覗いてみた。

 

「たたき上げ」というレッテルを貼ると何だか苦労人で世間のことがよく分かり庶民の代表というイメージが湧くがそれは人人による。

「たたき上げ」の内容と方法で政治家としての方向が定まって来る。

 田中角栄氏は会社経営者として高等小学校卒以後の学問と起業家としての努力でたたき上げた。

 村山富市は、労働運動を通してたたき上げた。

 菅氏は、衆議院議員秘書としてたたき上げた。

 この三人の内閣総理大臣はたたき上げてなった人であることには間違いない。

 政治家になるべくしてなり、総理大臣になるべくしてなった世襲政治家とは全く異なる。

 田中角栄氏も村山富市氏も確かなレガシーを遺した。

 さて、菅内閣総理大臣は何を残すことができるのであろうか。

 新しい時代の新しい改革をやってくれそうなそんな空気を感じるのであるが。国民の納得のいく庶民の生活をよくする法律をつくって欲しい。

 たたき上げ総理としての名を残そう。見守っている。